鉄熱日常雑記帖

かしこまって書かないブログ。

パンドラの匣。


わたしが「早期教育」に嵌っているのも、
掘り下げちゃうとこのあたりが因かなぁ、と薄薄思い出していた。最近。
わたし自身は四流私立短大出のすっとこどっこいなのだが、
不思議と学歴コンプレックスというのがない。

なぜか。
大学受験のはるか以前の話になるが、
圧倒的な教育環境格差というのを身をもって(幼いながらに)
感じてしまったことがその理由のひとつかもしれないなんて思う。

通っていたのは公立小学校だった。
が、教育熱心な親御さんが多い、というか圧倒的多数だった。
翻って、ウチは。教育に対する関心は高くない家庭(教育に金を使わない主義)だった。
当時の周囲の環境と相対的に見ると劇的に意識の低い家庭だった、と思われる。
小学校時代のいろんなエピソードを散りばめたいところだが、
厄介なことになったらそれこそ厄介なので、割愛。

子どもは親のものさしの中でしか生活できないと書いたことがあるけど、
まさにこのことが例としては適切で、
ウチはピアノは習えない、ウチは塾に通わない、ウチは中学受験はしない等等の
「ものさし」のなかで暮らし、そのことには特段不平不満とか感じるわけでもなく、
むしろ「みんな子どもなのに朝から晩まで勉強漬けでたいへんなことだな」と
暢気にしていたことも事実、ではある。

でも、もしかしたら。
でももしかしたら、わたしも幼馴染の○○ちゃんのように□□□したかったのかもしれない。
当時は、「塾に通いたい」「中学受験をしたい」とは思わなかった。
思わなかった、のだろうか。
ほんとうに、思わなかった、だろうか。
もしかしたら。
ウチではそれらの選択肢がないのだから、
『思わない』ようにじぶんの気持ちを押し殺していたのではないだろうか。

―― なんていう恐ろしいことに、おとつい気づいた。パンドラの匣。
学歴コンプはないが、幼い頃に感じた(押し殺したかもしれない)気持ちは、
明らかに別の種類のコンプレックスへと醸成されちゃったんじゃなかろうかと思う。

大なり小なり自分の育てられ方に不満があるらしく、子ども時代に満たされなかった部分を大人になって埋めようともがいてる。

すごく的確な指摘だと思います。

子の(わが家の)「早期教育」はとっても、とっても楽しい。
だからこれからも鋭意続けていく。
続けていくなかで、じぶんが、
「子ども時代に満たされなかった部分を大人になって埋めようともがいてる」ことを
自覚しておくことは大事だよな、という話でした。

ちなみに「パンドラの箱」には希望も入っていたらしい。
子と楽しみながら早期教育できていれば、そのことは希望になるのかな。
なっていたら、救い。
コンプレックスを「よい方向に使う」ことができれば、救い。